ラベル先生来日50周年記念講演会講演要旨

(平成18年10月28日、於上智大学

先ず、本日の会を開催して頂いた函館と鹿児島の同窓生の皆様、並びに函館父母の会の皆様のご出席に対し心から御礼申し上げます。
私は1956年9月5日にアメリカから貨物船で横浜に着きましたが、航海の途中台風に遭遇したため5日間程船酔いで大変な目に合いました。それ以降、船は懲りて専ら飛行機を利用するようになりました。
横浜港には代々木上原のブラザー達が迎えに来てくれており、早速歓迎会を開いて頂きましたが、この時初めて刺身と日本酒を味わい、以来すっかり大好物となりました。

来日後、東京・仙台・鹿児島・函館と各地を転々としましたが、東京には延べ14年間、仙台には2年間、鹿児島には延べ15年間、函館は延べ18年間程になります。
仙台の2年間は大学院で日本語を勉強しましたが一向に上達せず、最初の赴任先である鹿児島では、不充分な片言のままで14期生を教えた覚えがあります。
一方東京では、20名の学生寮の舎監をし、宿舎管理と会計を専らにしました。当時は学生運動が盛んな時代でしたが、寮内での政治活動は一切しないというルールの下で比較的平穏な日常を送りました。この当時、上智大学でフランス語を教えていましたが、学園封鎖があった時には、大学を守るために1号館に泊り込み、皆で頑張った良き思い出もあります。
また1968年から「よりよき世界運動(Better World Movement)」に参加し、17年間パートタイムで英語を教えました。この間チーム作りの為にベトナムや韓国にも行きましたが、韓国語同様日本語も読むことはできますが書くことはできません。元来私の母国カナダの言葉はフランス語ですので、英語は読み書き出来ても話すことは比較的苦手です。
さて、私とラ・サール会との関係は、私が13歳の頃、ラ・サール会の入会を決意した時に始まります。1年間熟考の末、14歳の時にやっと両親の承諾を得、16歳になって入会し、17歳で正式なメンバーとなりました。
ローマで宣教師をしていた20歳の頃、1年間アフリカのトーゴに派遣されましたが、忘れもしない1955年、管区長から日本への派遣打診がありました。北海道函館の学校建設計画に向けての派遣でした。私は日本行きを了承し、その後2ヶ月間書籍による日本の勉強を開始しましたが、先ずその異質な文化の違いに大変驚きました。
最近では、8年前に函館において中学校建設の準備に着手しましたが、この時副校長や教頭先生の支援無しでは計画は実現しなかったと思います。
私は時々「自分は何の為に日本に来たのか」と自問致します。日本人は親切且つ優秀であり、生徒も保護者も素晴らしい人達です。キリスト教徒でない一般の日本人は自覚しておりませんが、神は全ての人間の心に働きかけていると認識するようになりました。生徒の中には、自分の家の宗教が如何なるものか知らない人や宗教とは無縁の人が多く見受けられます。
このような生徒に対しては、当人が理解できないまでもイエスキリストの教えを紹介するようにしております。若い彼らが絶望や挫折といった人生経験を踏むにつれ、神が支えているのだというキリストの考えが理解できるようになります。
ルカの福音書に『貧しきものは幸いなり』とあり、同様にマタイの福音書にも『心貧しきものは幸いなり』とありますが、この意味は「自分が弱い罪深い人間である」ことを自覚し神を頼るようになることが幸いであると言っているのです。

とにかく日本は住みやすく、この50年間カナダに帰りたいと思ったことは一度もありません。
また、私の日本での使命は未だ終わってはおりませんし、今でも週5時間宗教を教えております。とにかくまじめな生徒や保護者並びに先生方に感謝の気持ちで一杯です。
特にPTA(母の会)の活動には素晴らしいものがあります。現在PTA支部が全国に10箇所あり、非常に活動が活発です。各支部の父母の皆さんとは、学校説明会や入試のときを含め、延べ30回もお会いしております。
またOBによる同窓会活動も活発であり、ラサーリアンとしての連帯を目的に海外にまで目を向けていることは素晴らしいことだと思っております。
このように私は多くの支援者に恵まれ、非常に感謝しております。
鹿児島と言えば、谷山時代に学校から海浜までつながっていた頃、その海岸で泳いだことや、大雨があがった後の水浸しの校庭に映った桜島が素晴らしかったこと等が強い印象として残っております。
現在ブラザーは函館と鹿児島にそれぞれ二人しかおりません。従って一般の先生の責任は非常に重いものがあります。何故なら、人間には良心があり、他人を尊敬する心があり、貧しい人を大切にする心があります。この意味で、信者でなくても先生と卒業生は同じ心でやっていけるからです。
私は、水俣病の被害にあった自分の子供を看病していたお母さんを知っておりますが、彼女は聖人と同じです。祈りは言葉ではなく、行動でもなく、姿勢であります。我々の目に見えない世界を重んじること、自らの良心を重んじることです。
函館の寮生は、就寝前に瞑想してその日の反省をしておりますが、このように皆が静かに瞑想することはカナダでは出来ないことです。
内省して目に見えない世界を重んじることです。キリスト教に限らず、自らの心にしたがって探すことです。愛の世界、良心を考えて下さい。経験は自分だけのものですが、自分以外のものが他に存在することに気づくでしょう。
(記録:函館7期 川原光徳氏)